スタッフのつぶやき
2024.01.24
あかんちょうのつぶやき「柳に風」96
肩の力を抜きなはれ
桂文珍の新作落語に「老楽風呂」という噺がある。実に面白く、何かに行き詰まった時に聴くことをお勧めしたい。
定年退職して再雇用になったビジネス男が、帰宅途中に新しい風呂屋を見つけて入ってみた。湯船に浸かると疲れがほぐれ、思わず「ああ~」と声が出る。自分でもジジくさいなあとつぶやいていると、隣にいたお爺さんが、苦労を重ねてきた大人だからこそそういう声が出るのだ。子どもには出せない、気にするなと言い、年齢を重ねることの大切さを語り始める。「競争はいかん、年を取ったことを嘆くな、モノやカネや情報に振り回されるな、ボーっとしている方が豊かな人生だ、肩の力を抜きなはれ」と、飄々と諭されるうちにだんだん気持ちよくなってくる。ものは考えよう、老いは楽しいという人生の極意が散りばめられた味わい深い噺である。
現代の狭量な肩肘の張った世間を超えた、実に開放的で包括的な世界。この噺を聞くと、年取るってええよ〜 となるから不思議だ。
(あかんちょう)
2024.01.12
あかんちょうのつぶやき「柳に風」95
ニューイヤーコンサートは華やかに
毎年、新年にニューイヤーコンサートを聴かないと一年が始まらない、という人がいらっしゃる。1年間でニューイヤーだけにご来場される人もいる。その気持ちはわからないでもない。本場ウィーンでも上演され、世界中で放送されるので、わが町でも生のオーケストラで聴いて、その雰囲気を味わいたいというわけである。ニューイヤーコンサートの醍醐味は、ワルツ王と言われるヨハン・シュトラウス2世や1世のワルツやポルカを存分に楽しむことと、お決まりのアンコール「ラデツキー行進曲」で手拍子をしながらステージと客席の一体感を味わうことだろう。
豊田市コンサートホールでも開館以来、ほぼ毎年の恒例行事としてニューイヤーコンサートを上演しているが、個人的に印象深いのは、ハンガリーの国立ブダペストオペレッタ劇場によるコンサートだ。この劇場はウィーン・フォルクスオーパーと双璧をなすオペレッタ(喜歌劇)の殿堂で、劇場のスター歌手やダンサーたちが専属オーケストラと共に、なんともエキサイティングかつ楽しいステージを繰り広げてくれ、本場のエッセンスを満喫させてくれる。フレンチカンカンやミュージカルのナンバーまで登場するのだ。ウィーンのワルツを中心にしたステージは上品な洒落っ気と格式があるが、ブダペストのステージは、より庶民的でサービス精神旺盛なエンターテイメント性が素晴らしく、その理屈抜きの楽しい弾けるようなニューイヤーコンサートが好きだ。
ステージには綺麗な花を飾り、シャンペンも用意して、さあ今年も大いに盛り上がろう。コンサートホールの一年が始まる。
(あかんちょう)
2023.12.27
あかんちょうのつぶやき「柳に風」94
くだり坂には またくだり坂の 風光がある
のぼり坂の後には、くだり坂があるものだ。そして、そのくだり坂にしか見えない景色もある。
年の瀬も迫ってくると、「かさじぞう」という昔話を思い出す。あるところに貧しいおじいさんとおばあさんが暮らしていた。年の瀬が近いというのに正月を迎えるための餅すら買うことができなかったので、おばあさんが作った笠を売ろうとおじいさんが背中に背負って町へ出かけて行った。だが、残念なことに町では笠は売れず、おじいさんは売るのを諦めて意気消沈してとぼとぼ家路についた。その途中、峠を通ると頭に雪の積もった六体のお地蔵さんに気づき、可哀想に思ったおじいさんは売れ残った笠をお地蔵さんにかぶせ、足りない分は自分の笠をかぶせてやった。町へ笠を売りに行く時には気づかなかったが、売れずに笠を持ち帰る時には、寒そうに佇むお地蔵さんの存在に気づいたのだ。
くだり坂には、のぼり坂では視野に入らなかった違うものが見えるものである。「かさじぞう」という物語は、そういうことを伝えているように思えてならない。
(あかんちょう)
2023.12.10
あかんちょうのつぶやき「柳に風」93
激しい嫉妬と恨みを持った女性だからこそ救われた話
来年のNHK大河ドラマは紫式部が主人公らしい。
紫式部は、平安時代に世界最古の女性文学といわれる『源氏物語』を書いた人だが、その『源氏物語』は能の作品に題材として多く取り入れられ、様々な人間の姿を映し出している。代表的な能の一つが「葵上」だろう。
主人公は、愛する光源氏の正妻の座を年下の葵上に奪われた高貴な女性・六条御息所である。気品と教養を持ち合わせ、身分の高いプライドゆえにその屈辱は耐え難く、嫉妬で燃え上がるわが身をどうしようもない。能では、般若の面をつけ、生霊となって葵上を呪い殺そうとするが、美しい自分を傷つけまいと本心を押し殺す自己抑圧から生霊にならざるをえなかったのだ。仏法に照らされて、静まり返ったかと思えば、また激しい情念が蘇る。そう簡単に成仏できるものではなく、繰り返す執心を突き抜け、羞恥と悲しみに真に目覚めたその瞬間、例えようのない美しさが訪れる。
源氏物語の中で男性に人気の高い登場人物は、頼りなさげで控えめな「夕顔」だとよく言われるが、なぜか個人的には、六条御息所に愛おしさを感じる。御息所は、嫉妬心が深いゆえにかえって悟りへ近づけたといえるのではないだろうか。
(あかんちょう)
2023.11.26
あかんちょうのつぶやき「柳に風」92
昭和レトロブーム
今、若者の間で昭和の時代に流行したものが見直されているらしい。純喫茶が好まれ、歌謡曲を聴き、スナックが注目され、古着を愛好しているなど、昭和を代表する大衆文化に目が向けられている。純喫茶では、クリームソーダやプリンアラモード、ナポリタンスパゲッティなど昭和の喫茶店で定番に出されたメニューが人気で、若者にとってはとても新鮮で、競ってインスタにアップしている。歌謡曲は昭和時代に世代を超えて大いにお茶の間を賑わしたものだが、当時の流行歌を若者が自ら歌いYouTubeで流している。歌詞が深くて、味わいがあるのだとか。また、カラオケスナックにも若者が集い、カウンター越しに店のママさんと談笑したり、昭和の歌を歌って、その店で知り合った人と友達になるなど、カラオケボックスでは味わえない血の通った時間を過ごしている。昔母親が来ていた服や鞄を借りて休日に外出したり、古着はカッコいいとして、昭和の時代に流行したヴィンテージ物を古着屋で購入して着ているのだ。
昭和の時代を人生のど真ん中で過ごした世代にとっては、甘美で感傷的なノスタルジーになりがちだが、若者にとっての昭和の大衆文化は、夢があり勢いがあり斬新であったりとその見方が違うようだ。考えてみれば平成・令和の世代にとっての昭和は、昭和の世代にとっての明治・大正ロマンの時代に相当するのかもしれない。
レトロな大衆文化の中でも音楽は殊のほか時代を反映しているのも頷ける。当時流行した曲を聴けば瞬く間にその時代の風景が目の前に広がる。「歌は世につれ世は歌につれ」と言われるが、その時代に流行した歌は、その時代の時勢の流行を受けて変化し、世の中の情勢もまた流行した歌に影響されていくという。昭和レトロブームによって再び流行る音楽は、現代のAI社会に何を投げかけるだろうか。
(あかんちょう)
2023.11.08
あかんちょうのつぶやき「柳に風」91
要件を聞こう
かつて、フレデリック・フォーサイスの最高傑作「ジャッカルの日」を読んで国際スパイ小説に開眼したが、実はその背景には、ゴルゴ13の存在があった。20代の頃、僕はビジネス書として漫画「ゴルゴ13」を読んでいた。狙撃手ゴルゴに殺人を依頼する依頼主が、回りくどい説明をすると必ず「要件を聞こう」と一言。彼の仕事のスタイルは、結論から切り出す、徹底した下調べと事前準備、驚くべきリスクマネジメント、標的を外さない、クロージングは瞬時に、仕事の後はきれいに、ということだ。
ゴルゴは究極まで人間を信じないが、そこには人間というものは簡単に豹変し、裏切りもする悲しく愚かな存在であることが通底している。裏を返せば、それを事実と受け止めることによる作者さいとうたかお氏の厳しくも温かい眼差しが表裏一体になっていると思う。
真実のみを信じ行動するゴルゴに貫かれたもの、作者さいとうたかお氏からの問いは何だったのか。今では想像するのみだが、少なくとも「要件を聞こう」の中には、人間とは何かを深く問い続ける視線が描かれているのではないだろうか。
(あかんちょう)
2023.10.25
あかんちょうのつぶやき「柳に風」90
人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇である
(チャーリー・チャップリン)
これは、喜劇王と言われたチャップリンの名言だ。
路上を颯爽と歩くオジサンがおかしな恰好で転倒したら、思わず笑ってしまうかもしれない。だが、そのオジサンの服が破れたりしたら、思わず悲しくなってしまうだろう。悲劇と喜劇は常に紙一重なのだ。また、自分の過去に起きた悲しいできごとを、人生全体で捉えてみれば笑い話として受け止められることもある。喜劇王チャップリンの映画を観ると、自分の視点がクローズアップとロングショットの間を行き来する。
鋭い社会風刺が込められ、ユーモアと同時に貧困に喘ぐ市民の怒りや哀愁が、涙とともに描かれたチャップリンの名作無声映画を、オーケストラの生演奏付きで観るという企画をコンサートホールで上演したことがある。元々音がない映画に音楽が入り、様々な効果音で臨場感を高めたものだ。オーケストラの楽員さんに聞いた話では、ガラスを割るシーンを最高に演じるために、様々なガラスを何枚も割って試し、究極のガラスを見つけたというエピソードもあるらしい。
そのような努力の賜物で、チャップリンの映画はハンカチなくしては観ることができない。人生をクローズアップして見るか、ロングショットで見るか、それは私自身にかかっている。
(あかんちょう)
2023.10.12
あかんちょうのつぶやき「柳に風」89
民族音楽のパフォーマンス
純粋なクラシック音楽、いわゆる“純クラ”ではなく、世界の多様な音楽を紹介する「世界音楽の旅シリーズ」という企画を続けている。これまでに、ニューオリンズ・ジャズ、イタリア・カンツォーネ、ジプシー音楽、ブラジル・サンバ・カーニバル、フラメンコ、バリ島のガムラン音楽、ハワイアン、ブルガリアン・コーラスなどなど、多種多様な民族音楽の企画を発信してきた。
純クラとは違い、思わぬハプニングが起きるなど予期せぬことが多く、ある意味面白い。例えば、ニューオリンズ・ジャズはコンサートの終盤に演奏者がお客さんを煽ってステージに上げてしまった。次から次へとお客さんがステージに上り大盛り上がり。また、ブラジル・サンバでは、女性ダンサーたちが肌を露出した現地カーニバルの衣装で客席の通路まで出てきて、腰を振って踊りまくり、目の前に座っていたお客さんは目と鼻の先で女性のお尻が揺れ、目のやり場に困ってしまっていた。バリ島のガムランと舞踊の時は、演奏者が演奏中のバイブレーションでトランス状態から次々に陶酔・失神していく。失神した奏者には水をかけて目を覚まさせ、またステージに戻って演奏を続けるという荒技だ。ジプシーバンドのヴァイオリニストは、常時2,000曲の音楽が身体に入っており、いつでも流しのように自由自在に演奏できると豪語していた。
民族音楽は、その音楽性やパフォーマンスが実に豊かで多様、何が飛び出すかわからない。そこがまた面白いからやめられないのである。
(あかんちょう)
2023.09.29
あかんちょうのつぶやき「柳に風」88
五色の幕と五大元素
能楽堂の橋掛かりの奥には、舞台に彩を添える五色の幕が掛けられている。色の違う緞子を縦に五枚並べて縫い合わせたもので、配色は緑・黄・赤・白・紫の五色。まるで野菜サラダのようだ。能楽堂によっては三色や四色の幕が掛けられているところもある。この五色の配色は、寺院に掛けられる五色幕や建物の上棟式で揚げられる五色旗と同じだが、仏教の五大要素の思想に基づくとも言われている。
仏教では、地球上あるいは宇宙の全てのものは、空・風・火・水・地の五つで構成・調和されていると考えられ、これを五大要素または五大元素という。緑が「空」、黄が「風」、赤が「火」、白が「水」、紫が「地」を意味し、空は無限の広がり、風は自由と自在、火は浄化、水は潤いや流動性、紫はゆるぎない大地を表現しているようだ。
能の出演者が登場したり退場する時に、この幕を揚げ下げして使うある種の結界だが、その時、この能舞台は過去・現在・未来を一瞬にして表現する壮大な宇宙空間になるのかもしれない。
(あかんちょう)
2023.09.13
あかんちょうのつぶやき「柳に風」87
現代曲は聴かなければ損
クラシック音楽の現代曲は、聴くことを敬遠されることが多い。古典作品と違い、不協和音が多かったり、慣れないリズムや緩急などにより聴く側に焦燥感や緊張感が強いられることもあるからだ。コンサートホールで行われる演奏プログラムも、どちらかといえば現代曲や新作は控える傾向がある。ただ、時には衝撃的な出会いがあり、現代曲に魅了されてしまうこともある。豊田市コンサートホールの企画でも何度かそういう出会いがあった。
その最たるものは、2012年、ヴァイオリンの鬼才ギドン・クレーメル率いるクレメラータ・バルティカというラトヴィアの若手演奏家たちによる室内アンサンブルのコンサートだ。プログラムの大半が現代の作曲家による作品で構成され、うち1曲はミェチスワフ・ヴァインベルクという舌を噛みそうな名前のポーランド人作曲家で、日本初演であった。この曲を含め、この日の演奏はどれも素晴らしく、全く知らない曲であるにもかかわらず、ぐいぐい弾き込まれ圧巻の演奏であった。曲がいいのか演奏が素晴らしいのか。どちらもいいのだろう。いや、演奏家の力量が、曲の魅力を最大限に引き出したのかもしれない。この時ほど、現代曲の魅力に驚いたことはなく、衝撃的な出会いであった。
他にも、エストニア国立男声合唱団(いずれもバルト三国の演奏家だが)による現代曲のコンサートでは、演奏は言うまでもなくそのアイデアがユニークだった。演奏中に演奏者全員が小さな紙袋を一斉に叩いて鳴らしたり、手に持ったワイングラスの淵をなぞりながら音を発する、客席の四方に分散して山びこのように歌うなどその意表を突いた演出が実に面白かった。ピアノ、弦楽四重奏、パイプオルガンなど、鮮烈な新作との出会いはたくさんある。
現代曲は、実はとても魅力にあふれており、聴かなければ損なのである。
(あかんちょう)
2023.08.24
あかんちょうのつぶやき「柳に風」86
蝉は 春・秋を知らない
8月、一心に鳴く蝉の声を聞くと、毎年必ずこの荘子の言葉「蟪蛄(けいこ)春秋を知らず、朝菌は晦朔(かいさく)を知らず」が身にしみて思い出される。
ひと夏を精一杯に生き、いのちを輝かせて死んでゆく蝉。夏だけを生きている蝉は、春・秋を知らず夏だけを知っている、のではなく、実は、今が夏という季節だということを知らないということだ。朝だけに生まれる菌(キノコ)は、夜を知らないのだから、朝菌というキノコは、今が朝だということを知らない。翻って、僕たちはどうだろうか? 今しか知らない者は、今も知らない。今がどういう時間なのかわからない。夏を迎えるたびに、繰り返す問いだ。
今が夏であることを知るためには、夏を越えて、秋や春という季節があることを知っていなければならいというわけである。「自分のことは自分が一番知っている」とよく言うが、実は自分については、自分のことばかり見ていてもわからない。自分の本当の姿を知るためには、自分を越えたものに触れなければならないとは言えまいか。
短いひと夏を懸命に生きていのち終えてゆく蝉を見る時、蝉のように自分は生きているか、ただただ厳粛な気持ちになってくるのである。
(あかんちょう)
2023.08.12
あかんちょうのつぶやき「柳に風」85
世界の三大長編小説
高校時代の世界史の教師に、一生の間に読むべき世界の三大長編小説を教えられ、読んだことがある。もちろん、恩師の独断と偏見によるものだが、博学多識であったが故に信憑性は高い。
その三大長編とは、まずドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、そしてセルバンテスの「ドン・キホーテ」、3つ目は中国・羅貫中の「三国志演義」である。当然これ以外の小説を推す輩もいるかもしれないが、なにしろ独断と偏見なのでお許し願いたい。
人類文学の最高傑作とも言われる「カラマーゾフの兄弟」は、作家の村上春樹氏が、<世の中には二種類の人間がいる。「カラマーゾフの兄弟」を読破したことのある人と、読破したことのない人だ。>とまで書いているほどだ。その魅力は一言ではとても言い表せないが、人類に共通する永遠の悩みをどう受け止め、答えを出していくか、その問いと答えが多様な人間模様の中から描かれていることだろう。
三大長編小説いずれも、若い頃そしてある程度年齢を重ねてから幾度か読んだが、非常に読み応えがあり、常に発見がある。様々な登場人物の生き方を通して、人間とは何か、生きるとはどういうことかを深く考えさせられたものだ。
今、あれだけの大作に真っ向から挑むのは至難の業だろう。年を追うごとに、気力と体力そして集中力が衰えていくと長編小説を継続して読めなくなってくる。ついつい短編に走ってしまいがちだが、まあそれも自然の流れかもしれない。長編小説は、ぜひ若いうちに読んでおきたいものである。
さて、今日も短編小説を読むことにしよう。
(あかんちょう)