スタッフのつぶやき
2023.01.13
あかんちょうのつぶやき「柳に風」70
アイヌの豊かさ
アイヌ民族は日本列島の北部、とりわけ北海道の先住民族のことだ。言葉は、日本語とは異なる独自のアイヌ語を話す。アイヌとは「人間」を意味し、対して「神」のことをカムイと言う。火の神、水の神、土の神、木の神、空の神、雨の神…、アイヌの世界では、自然界のものには魂が宿るとされ、身の回りのもの全てが「神」なのである。熊や魚なども人間の食にするため神と崇めもてなし、いただいた後は神の国に送る儀式としてくじら祭り、熊祭り(イヨマンテ)を行い、歌い舞い踊る。芸能の根本は常に厳粛な祈りなのだ。独特の刺繡や木彫り工芸も自然に寄り添い、神から与えられた仕事である。人間とは、人間以外の全てのものによって生かされていることを先祖から受け継いできたアイヌ人こそ、真に人間らしい人間なのかもしれない。
以前ある人から、アイヌの人はお年寄りが認知症になると、「神の国に行かれた、神の言葉を話し始めた」と敬って言うのだと聞いて驚いた。常に神と共に生きるアイヌ、なんと豊かな世界ではないだろうか。
(あかんちょう)
2022.12.23
あかんちょうのつぶやき「柳に風」69
ないものがあるように見える狂言の至芸
今年の冬はとにかく寒い。極寒と言ってもいい。北陸や東北の一部は記録的な大雪になっているようだ。師走の雪といえば、狂言に「木六駄(きろくだ)」という大曲がある。
ある冬の日、奥丹波のとある主人が家来の太郎冠者を呼び、都に住む伯父に歳暮の品の薪と炭と酒樽を届けるよう命じた。大雪の中、太郎冠者は木六駄(六頭の牛に積んだ薪)と炭六駄(六頭の牛に積んだ炭)、合計十二頭の牛を一人で追いながら山道を行く。あまりの寒さに、途中、峠の茶屋で一杯飲んで暖まろうとするが、あいにく酒が品切れのため、ご進物の酒樽に手をつけ、つい一口二口と進むうちにとうとう飲み干してしまう。結局、伯父の所に着いた時には歳暮の樽酒は無く、言い訳をしなければならないことに・・・。
空が真っ黒になって雪が降り、降りしきる雪の中を十二頭の牛を束ねて追っていくさま、舞台に登場しない牛がまるでその場に見えるように演じるところが至難の技だ。豊田市能楽堂では、当時米寿を迎えていた人間国宝・野村萬師や野村万作師の至芸で鑑賞できたが、実際にはいない十二頭の牛が舞台にはっきりと見えるようであった。
(あかんちょう)
2022.12.15
あかんちょうのつぶやき「柳に風」68
寅さんの味わい
土曜日の夜、録画しておいた寅さんを観ながら一杯やるのがたまらない。
映画「男はつらいよ」はBSで全49作品を放送し、現存の役者だけでなんと50作目も制作された。毎回登場するマドンナ役は、いずれも時代を代表する人気女優ばかりだが、そのマドンナに寅さんが旅先で恋に落ち、最終的にはふられてしまう。失恋した寅さんに、腫れ物にでも触るように接する葛飾柴又の団子屋の面々。結末はまたふらり一人旅へ出るという毎度お決まりのパターンだが、なぜかいつ観てもつい観入ってしまい、笑いと涙を誘う。
山田洋次監督曰く、「頭も顔も悪い、学もお金もなく、家族もない」そんな男が人を支え人に支えられて、元気いっぱいに生きていった豊かな時代。現代に失われてしまった大切なものを、今こそゆっくりと味わいたい。
寅さんには、人生の全てが詰め込まれていると思う。笑いと涙、つまり喜びと悲しみ、そして怒り、苦悩、安らぎ、無常観まで描かれている。寅さんは日本のオペラなのである。
(あかんちょう)
2022.11.25
あかんちょうのつぶやき「柳に風」67
やられたら やりかえさない
映画音楽コンサートという企画を度々行ってきた。様々な名作映画の中の名曲を紹介していくものだが、必ず入っているジャンルが西部劇だ。
その西部劇に「大いなる西部」という名作映画がある。米国テキサス。そこに広がる雄大な自然。ここ西部の人々は、彼らの住む広大な地を誇りとし、土地の奪い合いに余念がない。大牧場を有する村と村が、その生命線である水源地を巡って長年にわたり激しく対立してきた。そこへ、東部から船乗りの男が一方の村の娘と結婚するため、西部にやって来た。数々の挑発、暴力、軽蔑にも屈せず、平和な解決策を探る。挙げ句の果て、フィアンセに軽蔑されてさえも拳は振るわない。
数年前に、「やられたらやりかえす、倍返しだ」というドラマが流行ったが、半世紀以上前の西部劇には、やられたらやりかえさない、真の紳士が描かれている。「大いなる西部」の原題は “The Big Country”。それは雄大な西部ということではなく、主人公にみる気高さ、冷静さ、勇気であろう。
西部の男たちは海の広さを知らない。本当の紳士は、彼女の前で勇ましく喧嘩をしてみせる男ではないのだ。広大な自然の中で、人間がアリのように小さい。
(あかんちょう)
2022.11.11
あかんちょうのつぶやき「柳に風」66
文化の日は、開館記念日
11月3日の文化の日は、豊田市コンサートホール・能楽堂の開館記念日だ。
今から24年前のこの日、厳かにテープカットが行われ、下階の図書館に続き、能楽堂で弓矢立合、その後に五流派家元総出演による祝賀能、コンサートホールで日本を代表する室内オーケストラによるベートーヴェンの交響曲7番で産声を上げた。
思えば、オープニングに至るまでの準備の数日間は、徹夜に近い日々が続き、人生の中であれほど仕事にどっぷり漬かった日々もなかったであろう。何事も最初が一番面白いと言われるが、無事オープンさせるために昼夜なく必死だったことが懐かしい。以後、毎年11月3日もしくは前後日に祝祭的な記念コンサートや記念能を上演。現在では決まったイベントこそないものの、やはり文化の日を迎えると記念日としての意識が高まる。今では、当時に生まれた子が成人を過ぎ、新人の職員として一緒に働くようにもなった。感慨深い。
世阿弥の言葉に、「命には終りあり、能には果てあるべからず」というのがあるが、豊田市の、そして人類の宝ともいえるこのコンサートホールと能楽堂にも果てあるべからず、と心から思う。
(あかんちょう)
2022.10.28
あかんちょうのつぶやき「柳に風」65
餅投げ
秋は収穫の季節だ。日本中の神社で秋祭りが行われる。
巫女舞、太鼓の奉納と共に収穫物を奉納し、お下がりを皆で分配する古くから伝わる村の祭り。それは老若男女や職業、社会的地位も問わず、皆が一緒に祭りを営む大らかな世界だ。国際社会で国境をせめぎ合う世界からは無縁の村の時代の風景である。
地元の神社では、小学生たちが神輿を担ぎ、子ども相撲や餅投げを行う。餅投げは、まさに「神饌の分配」の象徴だが、いつのまにかどこからともなく大勢の人々が集まり、我こそはと、必死に受け取ろうとする。人より多く取りたいという僕たちの習性から、短時間に人間性が丸出しになる。それでも現代に生き続ける餅投げは、終わった後に皆が笑顔になる。ほのぼのと懐かしい村の時代の共同体行事なのだ。
実は経験上、餅は拾う方よりあっちこっち均等に投げる方が難しい。
(あかんちょう)
2022.10.07
あかんちょうのつぶやき「柳に風」64
一往復半の奥行き
秋も深まり、ススキの穂を目にすると、必ず思い出される能の演目がある。能「井筒(いづつ)」だ。井筒とは、今ではほとんど見ることがなくなった、井戸の地上部分に木や石で作った囲いのことである。
能は、旅の僧が大和の在原寺を訪れるところから始まる。ひっそり静まりかえった古寺の境内、井戸の囲いにススキが揺れている。かすかな月の光が射し込んでいた。そこに現れた一人の若い女。女はその昔、歌人・在原業平と井戸で背比べをして遊び、やがて恋に結ばれた話を語り始めた。夜がふけると、女は業平の形見の衣と冠を身に着けた男装の姿で現れ、昔を懐かしみつつ、静かに舞を舞う。そっと井戸を覗けば、そこには業平の姿が映る(実際には、業平の形見を身に着けた自分の姿なのだが)。男女一体となり心が疼き感極まる官能の瞬間。男の役者が女装して、その女装した女が男装して恋する女を演じる、という一往復半の奥行きの世界。果たして、恋の永遠性はありうるのか。
豊田市能楽堂でもたびたび上演しており、秋になると観たくなる世阿弥の名曲中の名曲である。
(あかんちょう)
2022.09.24
あかんちょうのつぶやき「柳に風」63
余白
人間には余白が必要だ。
アニメ演出家の高畑勲氏は、その演出において余白を大切にした人である。遺作の「かぐや姫の物語」は、背景や人物の動きに余白が多く、見る人の想像力を掻き立てる。能・狂言は言うに及ばず、間という余白が意味を持つ。茶席は余白の宝庫で、間を前提とした空間だ。ため息が出るような見事な書は、墨文字と空白とのバランスが美を引き立てる。
余白を埋めないと気が済まない人がいれば、余白が埋まらなくても平気な人もいる。人を受け入れる余白、固定観念に執着しない余白、新しいことも試してみる余白。余白は人生を豊かにする、ような気がする。
だから、子どもには特に余白が必要だ。毎日ぎゅうぎゅうに習い事や勉強に忙しくて遊ぶ暇がないなどというのは、本末転倒。遊ぶ余白がなくなったら子どもは本当に大事なことを学べない。子どもは遊ぶことが仕事だと言ってもいいのではないか。
コンサートホールや能楽堂に来て音楽や芸能を楽しむことは、余白の中の余白だと信じたい。
(あかんちょう)
2022.09.14
あかんちょうのつぶやき「柳に風」62
カハヴィタウコ
何事も一息入れることは大切だ。
「カハヴィタウコ」とはフィンランド語で仕事中のコーヒーブレイクのこと。舌を噛みそうだが、”カハヴィ”はコーヒー、”タウコ”は休憩の意味。同じくスウェーデン語では「フィーカ」という。北欧諸国では仕事中にコーヒータイムを確保することがあたりまえで、フィンランドではその権利が法律で決められているというから驚きだ。北欧らしいゆったりとした習慣である。労働時間が4~6時間ならコーヒー休憩1回、6時間以上ならコーヒー休憩2回というように、食事休憩とは別に労働法で定められているとのこと。幸福度世界一と言われるフィンランドは、1人当たり年間10kgも消費する世界で最もコーヒーを飲む国でもあるが、このような一息入れる習慣もサウナでリラックスする文化も幸福感の大きな要因なのかもしれない。
現代は何事にもスピードと効率が重視される。無駄を排除し、必要最小限のコストと努力で速やかに成果を出すことが求められる。しかし、無駄にも2種類があるのではないか。本当に省いた方がいい無駄と、省いてしまうと心が乾き豊かさを失ってしまう無駄である。
職場においても、スピーディーに仕事をすることは大事だけど、スタッフがゆっくり思索をしたりアイデアを練ること、無駄話をすることも大切だ。そもそもコーヒーブレイクの「ブレイク」とは破る・壊すこと。デスクを離れ、景色を一望して面白いことを考えたい。
さあ、一息入れてコーヒーを飲もう。
(あかんちょう)
2022.08.26
あかんちょうのつぶやき「柳に風」61
北風と太陽
旅人の外套を脱がせたのは、冷たく強い北風ではなく、暖かく柔らかい太陽だった。
地元豊田市にある愛知少年院でアウトリーチ・コンサートを行ったことがある。演奏者は、その翌日に豊田市コンサートホールに出演していただくヴァイオリンの松田理奈さんとピアニストの菊池洋子さんだ。
整列して会場に入ってくる少年たちは、とても優しい目をしているように僕には思えた。なぜこんな子たちがここに…。やがて、お二人の妥協のない真っ向勝負の熱い演奏を聴くと、あまり気乗りしなかったであろう斜に構えていた少年たちの身体が、まるで外套を脱ぐかのようにどんどん前のめりになっていく。いじめによる不登校から、ヴァイオリンに夢中になった松田理奈さんの小学生時代。彼女の原点が、優しく情熱的な音楽を作り出していた。
出兵する息子を想う母親の気持ちを歌ったアイルランド民謡「ダニーボーイ」の演奏を聴いて、彼らは何を感じただろう。こみ上げるものを抑えきれなかった。
(あかんちょう)
2022.08.10
あかんちょうのつぶやき「柳に風」60
雪と花火
毎年、夏に花火を見ると思い出すのが、男声合唱曲にもなっている北原白秋の詞「雪と花火」だ。
花火があがる、
銀と緑の孔雀玉……パツとしだれてちりかかる。
紺青の夜の薄あかり、
ほんにゆかしい歌麿の舟のけしきにちりかかる。
花火が消ゆる。
薄紫の孔雀玉……紅くとろけてちりかかる。
Toron……tonton……Toron……tonton……
色とにほひがちりかかる。
両国橋の水と空とにちりかかる。
花火があがる。
薄い光と汐風に、
義理と情の孔雀玉……涙しとしとちりかかる。
涙しとしと爪弾の歌のこころにちりかかる。
団扇片手のうしろつきつんと澄ませど、あのやうに
舟のへさきにちりかかる。
花火があがる、
銀と緑の孔雀玉……パツとかなしくちりかかる。
紺青の夜に、大河に、
夏の帽子にちりかかる。
アイスクリームひえびえとふくむ手つきにちりかかる。
わかいこころの孔雀玉、
ええなんとせう、消えかかる。
読むだけで、まるで目の前の花火を見ているような臨場感、リズム、情緒、そして、ほのかに艶っぽい情景も重ねられた素敵な詞だ。冬の雪と夏の花火をかけ合わせた題名。花火は夜空にパット花開くものだが、その心に残る美しさは、雪のようにちりかかる、そっと消えかかる美しさかもしれない。
さて、僕たちは、夏の夜の花火にいったい何を見るだろうか。
(あかんちょう)
2022.07.27
あかんちょうのつぶやき「柳に風」59
1勝1敗の価値
息子が高校野球をやっていた頃のこと。3年生最後の夏の大会で、1回戦は勝利し、2回戦は強豪校を相手に接戦の末、終盤に攻められ敗退した。
当時はコロナ禍で、一度は大会中止も懸念されたが、結局2試合も野球をすることができた。しかも、価値ある1勝1敗。初戦の貴重な1勝で「勝ち」の喜びを味わい。2回戦で「負け」の悔しさを味わった。両方とも味わえたことは幸せだ。負けた悔しさは、彼らの人生を深めてくれるだろうし、6年ぶりにつかんだ勝利の味は、誇り高き金字塔となって彼らを勇気づけてくれるだろう。勝つことにも負けることにも意味がある。今こそ、そのことを実感してほしいと思ったものだ。
芸術においても完璧なコンサートは滅多にない。ピアノの巨匠がミスタッチをすることもあれば、能楽師が舞台から転落したこともある。それでも颯爽と演奏し、何もなかったかのように平然と演技を続けるプロの姿にむしろ感銘を受けたお客様も多かった。
成功にも失敗にも接することのできたことは、懐深く捉えれば、大いに価値あることではないだろうか。負け惜しみではなく、敢えてそう思いたい。
(あかんちょう)