スタッフのつぶやき
2021.05.25
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉛
焦る照明操作
「ステージを真っ暗にしてスタートしてください。1曲目の3小節目の1拍目で一気に明かりをオンにしてください。」 これは、カナディアン・ブラスという世界的な金管五重奏団のコンサートで、本番直前にマネージャーから指示された照明演出の要望である。その日、私は照明担当であった。失敗は許されない。急に緊張レベルが最高値に達してきた。リハーサルをさせてほしいが、他の曲ばかり練習していて、なかなか1曲目を取り上げてくれない。タイミングが狂ったら失敗だ。結局、2回だけ練習していざ本番。なんとか指示通りのタイミングでうまくいった。
この時以上に緊張したこともある。本番の真っ最中に演出が変わったことだ。通常、コンサートの照明操作機器はコンピュータで制御されているので、明かりの演出やプランを機器に記憶させておくことができる。ある時、本番演奏中にマネージャーから「予定を変更して、次の曲は照明を少し落として始めたい。今の曲中に切り替えてほしい」とのこと。つまり、本番進行中の照明のまま、音響操作卓に記憶されている次の曲のデータをウラで修正変更して保存、準備するということある。切り替える瞬間に手違いで真っ暗になってしまったらどうする。実際それはないだろうが、一抹の不安がよぎる。指示通りにデータを変え、照明を転換。ステージは何事もなく明かりが切り替わった。ホッとした。
コンサートの照明は、誰の目にも見えることなのでミスや間違いがあるとすぐにわかってしまう。普通に流れてあたりまえなのだ。音に集中するためには、照明が目立って邪魔をしてはいけない。あえて自然体の照明をどう作るか。それが、クラシックコンサートにおける照明の真骨頂ではないだろうか。
(あかんちょう)
2021.05.11
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉚
映画「晩春」と能「杜若(かきつばた)」
小津安二郎監督の映画は、能のようだ。余白が素晴らしく、序・破・急もある。その小津監督の代表作「晩春」の中で、父親の笠智衆と娘の原節子が、 能楽堂で能「杜若」を観るシーンがある。客席で、娘が父親の再婚相手と顔を合わすという設定だ。能を演じているのは、先代梅若万三郎。タイトルの晩春とは、これからまさに杜若が咲き誇る初夏の季節と重なる。
能「杜若」は、旅の僧が、杜若の名所である三河の国八橋にさしかかり、花に見とれていると、どこからともなく美しい女性が現れ、かつて『伊勢物語』の主人公の在原業平がここを訪れて歌を詠んだことなどを語る。やがて女は自らを杜若の精だと明かし、業平とその恋人であった二条ノ后の形見の装束を身に着け、そこに自分を重ね、往時を偲んで舞を舞う。なんとも艶やかな能である。
なぜ、小津監督は映画「晩春」の中に能「杜若」を観る場面を作ったのか? その謎は、映画を観た後に能を観ると解き明かされるだろう。といっても確かな答があるわけではない。
杜若の花の精が、人間の男に恋をする能。それはある意味、実現できない禁断の恋とも言える。その能を、父への愛ゆえに再婚相手を恋敵に見出してしまう娘の葛藤に重ね合わせたのは、小津監督の巧みさではないか。
五月、杜若の美しい季節にこそ、この映画と能を観たいものだ。
(あかんちょう)
2021.04.25
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉙
進化は退化
進化すると退化する。正確には、科学技術が進化すると人間は退化していく、ような気がする。
パソコンで文章を打つ習慣が長いと漢字を思い出せなくなる。カーナビに頼ってばかりいると道が覚えられない。インスタント食品に慣れると微妙な味の違いが判らなくなる。スマホを紛失するとパニックになる。私たちが求めてきたものは、「便利」で「快適」な「豊かさ」であり、それはつまり速く、楽に、思い通りにできることであったが、その結果、私たちの五感は鈍くなり、本来持っていた感性や能力が衰えてしまったことに気がつく。日常生活が便利で快適になれば嬉しいことではあるが、その時間を省略していく生き方は「生を営む、時を紡ぐ」ということからはほど遠いことになるだろう。
そんなことを考えていたら、「不便益」という言葉に出遇った。あえて不便なモノ、不便な方法を取り入れることにより、便利さよりも得るものがあるという発想だ。デジタルよりもアナログに魅力を感じてしまう世界観にも通じるかもしれない。クラシック音楽のSPレコードを蓄音機で聴くというマニアックなコンサートを何度か体験したことがある。針をレコードに落とす瞬間の緊張、音が流れるまでの固唾をのむ時間、そしてリアルで豊潤な音楽。その音質の素晴らしさに生のコンサートに匹敵する感動を覚えたものだ。目をつむって音に集中すると、歴史的なオペラ歌手マリア・カラスやエンリコ・カルーソーが、まるで目の前で歌っているかのようだった。そのブレスの音まで生々しく聴こえるのだ。CDやYoutubeではこうはいかない。
ワンタッチで再生できるデジタルと違い、手間がかかる蓄音機での再生だが、そのアナログの音質的な魅力は容易には超えられないだろう。進化は退化なのである。
(あかんちょう)
2021.04.10
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉘
少年よ がんばる なかれ
4月は入学式・始業式・入社式など、新たな門出の場が多い。
身の引き締まる新鮮な気持ちで、校門をくぐり教室に入る、あるいは会社に入って研修を受ける、そういう人たちが全国にたくさんいることだろう。だからこそ、毎年4月になると大好きな水木しげるさんのこの言葉を思い出す。頑張ってばかりではよくない。本当の力とは、力みを抜く力ではないだろうか。けしからんという人もいるかもしれないが、どうも昔から「頑張れ」という励ましの言葉が好きではなかった。書家の相田みつおさんも「アノネ がんばらなくてもいいからさ 具体的に動くことだね」と表現している。簡単なことではないが、むやみに頑張るのではなく、肩の力を抜いて具体的に行動することが何事においても近道ではないかということだろう。
ピアノの巨匠アルド・チッコリーニが、80歳を超えて豊田市コンサートホールでリサイタルを行った時、照明スタッフにステージの明かりはできるだけ暗くしてほしいと注文をしてきた。もし照明を当てるなら演奏する手先と鍵盤だけで構わないと。驚いてその理由を尋ねると、「僕は音楽の下僕だ。ただ作曲家が作った作品の指示通りに演奏するだけだから、僕に光が当たらなくてよい。」と。これでもかと自分を表現しようと頑張る人もいる一方で、なんと健気でカッコいいマエストロだろうか。
音楽作品とは、すでに歴史的作曲家が残した完成されたものだ。それに向かって自分の色を出そうと頑張るのではなく、ただひたすらその作曲家の指示通りに弾く。それでも自ずから個性が滲み出てくる。あえて頑張らなくてもよいのだ。
少年よ がんばる なかれ。丁寧に、具体的にいこうではないか。
(あかんちょう)
2021.03.26
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉗
桜の花は、散って地面に落ちた時に、紅が一番美しくなる
これは、詩人の村瀬和子さんに教えていただいた言葉だ。
無常にも七日で散る桜、命終わる最後の輝き。この季節、能「西行桜」を思い浮かべる。京都は嵯峨野、西行の庵室に咲き誇る老桜。心静かに一人で桜を愛でるはずが、 多くの花見客が来て騒がしい。これを桜のせいだと嘆く西行の夢枕に、老人の姿をした老桜の精が現れ、無心に咲く桜に罪はなく、思う人の心の中にこそあるのだと西行を諭す。恥じ入る西行と、それゆえ仏法に出遇えた老桜の精の心は一体となり、得難い友として夜遊の時を過ごす。 命をかけて最後の花を咲かせる老桜。やがて、夜明けとともに姿を消し、そこには、風に散った雪のような落花が残るばかりだった。
散る花に美しさをみる日本人。それは、無常であるがゆえにかけがえのない命の輝きと滅びの美しさを見るからだろう。常に人間は、滅びと背中合わせに生きているのだ。
この世阿弥の名曲を生涯最後の舞台に選ぶ能楽師も多い。その時、二度とふれることができない芸の極みを観ることになる。桜の花は、咲き誇った時ではなく、散って地面に落ちた時に、紅が一番美しくなる。
(あかんちょう)
2021.03.11
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉖
消えた「仰げば尊し」
卒業式のシーズンである。
昔は、卒業式といえば「仰げば尊し」であったが、近年では全国的にほとんど歌われなくなったようだ。我が家でも、3人の子どものうち、かつて2人目の高校の卒業式のみ聴くことができた。歌われなくなった理由を現役の学校の先生に訊いたことがある。理由は、歌詞が古くてわかりにくく、悲しい歌だからだとか。それで皆、歌詞がわかりやすくて明るい歌を歌うようになってきた。
「今こそ別れめ」は「今こそ別れ目」ではなく、「今こそ別れよう」の意味だが、実に深い歌詞だ。この歌は、短い歌詞に師や友への想いが凝縮したとても尊い歌だと思うが、悲しい・暗いという理由だけで避けられ、軽快な曲に取って代わることこそ悲しくはないだろうか。実は、この歌は長調で基本的には明るい曲調なのである。また、歌詞についても、校歌は古かろうが難しかろうがそのままオリジナルを歌っているのだから、大きな矛盾をはらんでいる。
師や友と別れる悲しい時に、気持ちを切り替えるのではなく、悲しみを体感して歌を歌うことが、心に深く感動が刻まれ、人生をより豊かなものにしてくれるのではないだろうか。
人生の節目、旅立ちの日に、悲しい歌も大切だと思う。
(あかんちょう)
2021.02.27
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉕
漫才初体験
毎年1・2月に行っている「大人のためのクラシック講座」は恐怖の企画で、演出として館長が登場させられる場面がある。今回のテーマは作曲家モーツァルトで、講師の加藤昌則さんと2人でモーツァルト親子に扮した漫才をやることになった。
私は父親のレオポルト役で、息子に対して威厳をもった雰囲気を出さなければならない。ザルツブルクの田舎から魅力的な街ウィーンへ音楽の勉強に?行きたがる息子に対して、ウィーンは魅力的だが危険や誘惑も多いから、お前は行くな、ワシが代わりに偵察に行って来る(笑)という話。
実は当時のウィーンは、ザルツブルクにはない遊園地や様々な国の料理が食べられるレストランと魅力的な酒場がたくさんあった。酒場には、トルコ風のエキゾティックでセクシーな格好をした美しい女性も出入りしており、そこで遊びたいというのが父レオポルトの本音。威厳と気まずさを演出して、台詞を覚えてテンポよく漫才をやるというハードルの高すぎる企画だ。漫才はいきなり講座の幕開けにあり、その後は講師の滑らかなトークと素敵な演奏が続くのだが、慣れない役割にヘトヘトになってしまった。
この体験を通して、日頃ボーッと見ている漫才という大衆芸能がいかに難しく奥深いものであるかを実感した。考え方によっては一人の語り芸よりも難しい。相手があり、絶妙のテンポでたたみかけ、しかも笑いを取れなければならない。
笑える漫才は、笑えないほど難しいのである。
(あかんちょう)
2021.02.13
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉔
チック・コリアのアドリブ
20代の頃、音楽といえばジャズ一辺倒だった。 名盤と言われるCDを買い集め、ライブハウスやジャズ喫茶に入り浸った。CDに囲まれ、好きな曲を流すジャズ喫茶のマスターになりたいとまで思った時期もあった。
ジャズ界のスーパー・ピアニスト、チック・コリアが亡くなった。かつて、あのマイルス・デイビスやスタン・ゲッツなどの名プレイヤーとのグループの一角にあり、その後ソロ活動をはじめ、ゲイリー・バートンやハービー・ハンコックら名手たちとのデュオなど輝かしいジャズ・シーンを作ってきた巨匠だ。
2年前、豊田市コンサートホールに登場。モーツァルトからジャズの名曲、自身のオリジナル曲まで幅広いレパートリーを楽しませてくれ、客席を熱狂させたことが記憶に新しい。美しいメロディーと躍動感あふれるリズム、時に深遠な世界観、そこにはステージと客席の隔たりはない。卓越した才能を持ちながらも、これ見よがしの演奏を聴かせるのではなく、客をステージに引っ張り出し、自らも客席にコミュニケートしたりする途方もなく自由な音楽空間を作るコンサートだった。
ジャズの魂はアドリブだが、それにより客席と軽々と一体化してしまう瞬間。モーツァルトが目の前に生きているように聴こえた。
(あかんちょう)
2021.01.27
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉓
地獄と極楽
菊池寛の小説に「極楽」という短編がある。信仰心の篤い一人の老女が、死後、生前夢にまで見た極楽世界へ行く。先に亡くなった夫にも再会し、一緒に何の苦しみもない極楽の生活を満喫していたが、あまりにも平穏な日々にだんだんと退屈になり、ある時ふと「地獄はどんな所かしらん」と、自分たちが行けなかった地獄について興味と憧れを抱くという話だ。
その地獄については、近年「地獄絵」の絵本が児童書部門の売り上げランキングで第1位になり、話題にもなった。地獄と極楽。どちらも古くから日本人に語り継がれてきた世界だが、それらはいったい何を意味しているのだろうか。
先日、能楽堂で地獄と極楽をテーマにした企画公演を行った。地獄絵を見せて仏の教えを説く絵解き説教とその説教が原点で浄土宗の安楽庵策伝和尚を元祖に始まったといわれる落語、そしてあらゆる台詞劇の基であり最も古い狂言の3本。これらの日本の話芸・語り芸の伝統芸能を通して「地獄と極楽」の世界を覗いてみようという仕掛けだ。いずれもテーマに沿った内容と迫真の舞台で、三途の川を渡ったり、閻魔大王に面会したような気がしてくる不思議なひと時だった。結局そこには、人間の本性が描かれている。
地獄と極楽は、遠いところの話ではなく、実は僕たちのもっと身近にあるのではないだろうか。
(あかんちょう)
2021.01.10
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉒
不便さの向こうにしかない豊かさ
空前のアウトドアブームである。特にキャンプ。それもソロキャンプが流行している。コロナ禍の影響で三密を避けることを優先し、野外で間隔を開けて楽しめることに人が流れているのかもしれない。考えてみれば、キャンプの眼目は不便さを味わうことである。自らテントを張り、薪を割り、火を熾して調理する。自然に触れ、風の音、川の流れ、鳥の鳴き声を聞きながら、空を眺める。便利で快適な室内で、じっとSNSにかじりついている日常とはかけ離れた世界だ。なぜ、多くの人がわざわざそのような不便さを求めてキャンプに行くのだろうか。冬になれば寒く、夏であれば暑い。寒空の下で白い息を吐きながら焚火をして、手間をかけて調理をするのには、どんな意味があるのだろうか。それは、明らかにその非日常性の中で、自らの五感が刺激を受けるからではないだろうか。本来はそちらの方が日常だったのだろうが、便利で快適な生活に馴れてしまった現代の私たちは、五感を使わなくても、大抵のことが疑似体験できる世界に埋没してしまった。それが行き過ぎてしまった反動なのかもしれない。
そのように考えてくると、能・狂言などはまさに不便さ・不親切さを地で行く芸能だと思う。謡や台詞の言葉は古く、象徴的な所作が多い。説明らしいものもほとんどなく、不親切極まりない。すなわち、観客側の想像力が相当必要なのだ。はたしてこれを、不自由と捉えるか自由と捉えるか。テレビをつければ、お笑い芸人による即席で笑える?番組が多い。狂言ではこうはいかない。能・狂言を楽しむには、五感を働かせる必要がある。暖房の効いた室内で飲むコーヒーよりも、風の冷たい野外で火を熾して淹れたコーヒーはなぜか美味い。
不便さの向こうにしか、本当に心の底から満たされる豊かさはないのではないだろうか。
(あかんちょう)
2020.12.24
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉑
遅刻寸前の巨匠
1998年12月4日、豊田市コンサートホールのオープニング・シリーズで、「アシュケナージ、ズッカーマン、ハレルによるピアノ・トリオ」という世紀の大ソリストによる豪華トリオのコンサートを行った。もちろん即日完売で満席のお客様が待ち望んでいた。だが、何か大きな不安が潜んでいた。
コンサート当日、名古屋のホテルに前泊していた3人のアーティストたちは、それぞれ個別にタクシーを使って豊田入りしてきた。ピアノのアシュケナージとチェロのハレルは、早々と到着し、黙々と練習を始める。一人だけ到着しない男がいた。天賦の音楽的才能と驚異的なテクニックを持つ天才ヴァイオリニスト、ズッカーマンだ。リハーサルの予定時間になっても到着せず、心配になったマネージャーがホテルに連絡すると、まだホテルでリラックスしていた。驚いたマネージャーが彼を急がせ、ホテルから出てタクシーに乗るというところまで確認が取れた。だが、いっこうにズッカーマンは到着しない。すでにリハーサルの時間は無くなり、アシュケナージもハレルも諦めて、楽屋で練習。本番時間が近づいてくる。アシュケナージは気になって仕方がなく、心配そうに楽屋から顔だけ出して「彼はまだか?」と何度も訊いてきた。
ついにホールが開場した。お客様が次々と入場して客席を埋めていく。まだ到着しない。いよいよマネージャーも我々スタッフも焦りだし、2人のアーティストは、トリオではなくデュオで演奏を開始する相談まで始めた。緊急事態のアナウンス原稿も考え始めた。とうとう開演15分前、もはやトリオでの演奏を諦めかけたその瞬間、お茶目な笑顔のズッカーマンがニコニコ笑いながら現れた。何かジョークを言い放っているらしく、アシュケナージもハレルも呆れているようだったが、とにかく間に合ってよかった。ギリギリの遅刻寸前だが、なんとか開演を遅らすことなくいざ本番だ。
この日私はステージマネージャーの担当だったが、3人をステージに送り出した直後、客席がどよめいた。ズッカーマンが舞台袖に戻ってくるではないか! なんと楽譜を舞台袖に忘れたらしく、手に取ると、「忘れ物をしました」と言わんばかりに客席の方に楽譜を掲げて見せながら悠々とステージに戻っていった。天才恐るべしである。結局3人はステージで一度も音を合わせることもなく、いきなり本番で最高のショスタコーヴィチを演奏し、満席の客席を唸らせたのだった。
コンサートホールでの仕事がまだ駆け出しの頃のこと。いきなり洗礼を受けた、いまだに忘れられない思い出である。
(あかんちょう)
2020.12.12
あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑳
狂言にみる人間の本性
「月見座頭」という狂言がある。タイトルが洒落ている。
目の見えない座頭が月見をするというのだ。中秋の名月の夜、下京に住む一人の座頭が野辺に出て虫の音を聞いている。たまたま通りかかった上京の男が声をかけ、座頭を労わり、意気投合して酒盛りが始まる。やがて宴が尽きて二人が別れた後、男はふと悪戯心を起こして引き返し、声色を変えて座頭に罵声を浴びせ、突き倒して立ち去る。目の見えない座頭は、「今の奴は最前のお方とは違い情のない人だ」とつぶやいたところで、狂言が終わる。客席に深い問いを残して。
人間が持つ相反する善悪の二面性を浮き彫りにした狂言の名作だ。これまで豊田市能楽堂では、茂山千作、野村万作、山本東次郎ら3人の人間国宝によって3回演じていただき、いずれも大変な名演であった。東次郎師が言うとおり、「見えない人がよく見えており、見える人が実はよく見えていない」ということは世の中には多いであろう。見えない座頭は野辺で虫の声を聞くことにより心の深いところで月見をする。一方、目の見える上京の男はどうだろう。
狂言を観た後、私はこの上京の男とは違う人間だと、はたして言えるだろうか。
(あかんちょう)