スタッフのつぶやき
2021.03.26
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉗
桜の花は、散って地面に落ちた時に、紅が一番美しくなる
これは、詩人の村瀬和子さんに教えていただいた言葉だ。
無常にも七日で散る桜、命終わる最後の輝き。この季節、能「西行桜」を思い浮かべる。京都は嵯峨野、西行の庵室に咲き誇る老桜。心静かに一人で桜を愛でるはずが、 多くの花見客が来て騒がしい。これを桜のせいだと嘆く西行の夢枕に、老人の姿をした老桜の精が現れ、無心に咲く桜に罪はなく、思う人の心の中にこそあるのだと西行を諭す。恥じ入る西行と、それゆえ仏法に出遇えた老桜の精の心は一体となり、得難い友として夜遊の時を過ごす。 命をかけて最後の花を咲かせる老桜。やがて、夜明けとともに姿を消し、そこには、風に散った雪のような落花が残るばかりだった。
散る花に美しさをみる日本人。それは、無常であるがゆえにかけがえのない命の輝きと滅びの美しさを見るからだろう。常に人間は、滅びと背中合わせに生きているのだ。
この世阿弥の名曲を生涯最後の舞台に選ぶ能楽師も多い。その時、二度とふれることができない芸の極みを観ることになる。桜の花は、咲き誇った時ではなく、散って地面に落ちた時に、紅が一番美しくなる。
(あかんちょう)
2021.03.11
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉖
消えた「仰げば尊し」
卒業式のシーズンである。
昔は、卒業式といえば「仰げば尊し」であったが、近年では全国的にほとんど歌われなくなったようだ。我が家でも、3人の子どものうち、かつて2人目の高校の卒業式のみ聴くことができた。歌われなくなった理由を現役の学校の先生に訊いたことがある。理由は、歌詞が古くてわかりにくく、悲しい歌だからだとか。それで皆、歌詞がわかりやすくて明るい歌を歌うようになってきた。
「今こそ別れめ」は「今こそ別れ目」ではなく、「今こそ別れよう」の意味だが、実に深い歌詞だ。この歌は、短い歌詞に師や友への想いが凝縮したとても尊い歌だと思うが、悲しい・暗いという理由だけで避けられ、軽快な曲に取って代わることこそ悲しくはないだろうか。実は、この歌は長調で基本的には明るい曲調なのである。また、歌詞についても、校歌は古かろうが難しかろうがそのままオリジナルを歌っているのだから、大きな矛盾をはらんでいる。
師や友と別れる悲しい時に、気持ちを切り替えるのではなく、悲しみを体感して歌を歌うことが、心に深く感動が刻まれ、人生をより豊かなものにしてくれるのではないだろうか。
人生の節目、旅立ちの日に、悲しい歌も大切だと思う。
(あかんちょう)
2021.02.27
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉕
漫才初体験
毎年1・2月に行っている「大人のためのクラシック講座」は恐怖の企画で、演出として館長が登場させられる場面がある。今回のテーマは作曲家モーツァルトで、講師の加藤昌則さんと2人でモーツァルト親子に扮した漫才をやることになった。
私は父親のレオポルト役で、息子に対して威厳をもった雰囲気を出さなければならない。ザルツブルクの田舎から魅力的な街ウィーンへ音楽の勉強に?行きたがる息子に対して、ウィーンは魅力的だが危険や誘惑も多いから、お前は行くな、ワシが代わりに偵察に行って来る(笑)という話。
実は当時のウィーンは、ザルツブルクにはない遊園地や様々な国の料理が食べられるレストランと魅力的な酒場がたくさんあった。酒場には、トルコ風のエキゾティックでセクシーな格好をした美しい女性も出入りしており、そこで遊びたいというのが父レオポルトの本音。威厳と気まずさを演出して、台詞を覚えてテンポよく漫才をやるというハードルの高すぎる企画だ。漫才はいきなり講座の幕開けにあり、その後は講師の滑らかなトークと素敵な演奏が続くのだが、慣れない役割にヘトヘトになってしまった。
この体験を通して、日頃ボーッと見ている漫才という大衆芸能がいかに難しく奥深いものであるかを実感した。考え方によっては一人の語り芸よりも難しい。相手があり、絶妙のテンポでたたみかけ、しかも笑いを取れなければならない。
笑える漫才は、笑えないほど難しいのである。
(あかんちょう)
2021.02.13
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉔
チック・コリアのアドリブ
20代の頃、音楽といえばジャズ一辺倒だった。 名盤と言われるCDを買い集め、ライブハウスやジャズ喫茶に入り浸った。CDに囲まれ、好きな曲を流すジャズ喫茶のマスターになりたいとまで思った時期もあった。
ジャズ界のスーパー・ピアニスト、チック・コリアが亡くなった。かつて、あのマイルス・デイビスやスタン・ゲッツなどの名プレイヤーとのグループの一角にあり、その後ソロ活動をはじめ、ゲイリー・バートンやハービー・ハンコックら名手たちとのデュオなど輝かしいジャズ・シーンを作ってきた巨匠だ。
2年前、豊田市コンサートホールに登場。モーツァルトからジャズの名曲、自身のオリジナル曲まで幅広いレパートリーを楽しませてくれ、客席を熱狂させたことが記憶に新しい。美しいメロディーと躍動感あふれるリズム、時に深遠な世界観、そこにはステージと客席の隔たりはない。卓越した才能を持ちながらも、これ見よがしの演奏を聴かせるのではなく、客をステージに引っ張り出し、自らも客席にコミュニケートしたりする途方もなく自由な音楽空間を作るコンサートだった。
ジャズの魂はアドリブだが、それにより客席と軽々と一体化してしまう瞬間。モーツァルトが目の前に生きているように聴こえた。
(あかんちょう)
2021.01.27
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉓
地獄と極楽
菊池寛の小説に「極楽」という短編がある。信仰心の篤い一人の老女が、死後、生前夢にまで見た極楽世界へ行く。先に亡くなった夫にも再会し、一緒に何の苦しみもない極楽の生活を満喫していたが、あまりにも平穏な日々にだんだんと退屈になり、ある時ふと「地獄はどんな所かしらん」と、自分たちが行けなかった地獄について興味と憧れを抱くという話だ。
その地獄については、近年「地獄絵」の絵本が児童書部門の売り上げランキングで第1位になり、話題にもなった。地獄と極楽。どちらも古くから日本人に語り継がれてきた世界だが、それらはいったい何を意味しているのだろうか。
先日、能楽堂で地獄と極楽をテーマにした企画公演を行った。地獄絵を見せて仏の教えを説く絵解き説教とその説教が原点で浄土宗の安楽庵策伝和尚を元祖に始まったといわれる落語、そしてあらゆる台詞劇の基であり最も古い狂言の3本。これらの日本の話芸・語り芸の伝統芸能を通して「地獄と極楽」の世界を覗いてみようという仕掛けだ。いずれもテーマに沿った内容と迫真の舞台で、三途の川を渡ったり、閻魔大王に面会したような気がしてくる不思議なひと時だった。結局そこには、人間の本性が描かれている。
地獄と極楽は、遠いところの話ではなく、実は僕たちのもっと身近にあるのではないだろうか。
(あかんちょう)
2021.01.10
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉒
不便さの向こうにしかない豊かさ
空前のアウトドアブームである。特にキャンプ。それもソロキャンプが流行している。コロナ禍の影響で三密を避けることを優先し、野外で間隔を開けて楽しめることに人が流れているのかもしれない。考えてみれば、キャンプの眼目は不便さを味わうことである。自らテントを張り、薪を割り、火を熾して調理する。自然に触れ、風の音、川の流れ、鳥の鳴き声を聞きながら、空を眺める。便利で快適な室内で、じっとSNSにかじりついている日常とはかけ離れた世界だ。なぜ、多くの人がわざわざそのような不便さを求めてキャンプに行くのだろうか。冬になれば寒く、夏であれば暑い。寒空の下で白い息を吐きながら焚火をして、手間をかけて調理をするのには、どんな意味があるのだろうか。それは、明らかにその非日常性の中で、自らの五感が刺激を受けるからではないだろうか。本来はそちらの方が日常だったのだろうが、便利で快適な生活に馴れてしまった現代の私たちは、五感を使わなくても、大抵のことが疑似体験できる世界に埋没してしまった。それが行き過ぎてしまった反動なのかもしれない。
そのように考えてくると、能・狂言などはまさに不便さ・不親切さを地で行く芸能だと思う。謡や台詞の言葉は古く、象徴的な所作が多い。説明らしいものもほとんどなく、不親切極まりない。すなわち、観客側の想像力が相当必要なのだ。はたしてこれを、不自由と捉えるか自由と捉えるか。テレビをつければ、お笑い芸人による即席で笑える?番組が多い。狂言ではこうはいかない。能・狂言を楽しむには、五感を働かせる必要がある。暖房の効いた室内で飲むコーヒーよりも、風の冷たい野外で火を熾して淹れたコーヒーはなぜか美味い。
不便さの向こうにしか、本当に心の底から満たされる豊かさはないのではないだろうか。
(あかんちょう)
2020.12.24
あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉑
遅刻寸前の巨匠
1998年12月4日、豊田市コンサートホールのオープニング・シリーズで、「アシュケナージ、ズッカーマン、ハレルによるピアノ・トリオ」という世紀の大ソリストによる豪華トリオのコンサートを行った。もちろん即日完売で満席のお客様が待ち望んでいた。だが、何か大きな不安が潜んでいた。
コンサート当日、名古屋のホテルに前泊していた3人のアーティストたちは、それぞれ個別にタクシーを使って豊田入りしてきた。ピアノのアシュケナージとチェロのハレルは、早々と到着し、黙々と練習を始める。一人だけ到着しない男がいた。天賦の音楽的才能と驚異的なテクニックを持つ天才ヴァイオリニスト、ズッカーマンだ。リハーサルの予定時間になっても到着せず、心配になったマネージャーがホテルに連絡すると、まだホテルでリラックスしていた。驚いたマネージャーが彼を急がせ、ホテルから出てタクシーに乗るというところまで確認が取れた。だが、いっこうにズッカーマンは到着しない。すでにリハーサルの時間は無くなり、アシュケナージもハレルも諦めて、楽屋で練習。本番時間が近づいてくる。アシュケナージは気になって仕方がなく、心配そうに楽屋から顔だけ出して「彼はまだか?」と何度も訊いてきた。
ついにホールが開場した。お客様が次々と入場して客席を埋めていく。まだ到着しない。いよいよマネージャーも我々スタッフも焦りだし、2人のアーティストは、トリオではなくデュオで演奏を開始する相談まで始めた。緊急事態のアナウンス原稿も考え始めた。とうとう開演15分前、もはやトリオでの演奏を諦めかけたその瞬間、お茶目な笑顔のズッカーマンがニコニコ笑いながら現れた。何かジョークを言い放っているらしく、アシュケナージもハレルも呆れているようだったが、とにかく間に合ってよかった。ギリギリの遅刻寸前だが、なんとか開演を遅らすことなくいざ本番だ。
この日私はステージマネージャーの担当だったが、3人をステージに送り出した直後、客席がどよめいた。ズッカーマンが舞台袖に戻ってくるではないか! なんと楽譜を舞台袖に忘れたらしく、手に取ると、「忘れ物をしました」と言わんばかりに客席の方に楽譜を掲げて見せながら悠々とステージに戻っていった。天才恐るべしである。結局3人はステージで一度も音を合わせることもなく、いきなり本番で最高のショスタコーヴィチを演奏し、満席の客席を唸らせたのだった。
コンサートホールでの仕事がまだ駆け出しの頃のこと。いきなり洗礼を受けた、いまだに忘れられない思い出である。
(あかんちょう)
2020.12.12
あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑳
狂言にみる人間の本性
「月見座頭」という狂言がある。タイトルが洒落ている。
目の見えない座頭が月見をするというのだ。中秋の名月の夜、下京に住む一人の座頭が野辺に出て虫の音を聞いている。たまたま通りかかった上京の男が声をかけ、座頭を労わり、意気投合して酒盛りが始まる。やがて宴が尽きて二人が別れた後、男はふと悪戯心を起こして引き返し、声色を変えて座頭に罵声を浴びせ、突き倒して立ち去る。目の見えない座頭は、「今の奴は最前のお方とは違い情のない人だ」とつぶやいたところで、狂言が終わる。客席に深い問いを残して。
人間が持つ相反する善悪の二面性を浮き彫りにした狂言の名作だ。これまで豊田市能楽堂では、茂山千作、野村万作、山本東次郎ら3人の人間国宝によって3回演じていただき、いずれも大変な名演であった。東次郎師が言うとおり、「見えない人がよく見えており、見える人が実はよく見えていない」ということは世の中には多いであろう。見えない座頭は野辺で虫の声を聞くことにより心の深いところで月見をする。一方、目の見える上京の男はどうだろう。
狂言を観た後、私はこの上京の男とは違う人間だと、はたして言えるだろうか。
(あかんちょう)
2020.11.25
あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑲
川のある町
作曲家の中村泰士さんが豊田市コンサートホールに出演された時、「豊田市は大きな川が流れていていいですね。町の真ん中に川がある町はいい町ですよ」と言われたことを覚えている。
町の中央に川が流れている都市は、世界中にたくさんあるが、そこに住んでいる人には当たり前すぎて、そのよさに気がつかない。川があれば土があり緑があり、自然の瑞々しさがなんとなく町にあふれているのだ。
コロナ禍をキッカケに自然を求めて散歩をすることが増えたが、5月頃だったか、ある時ふと川べりに立ち寄ると先客がいた。川に向かって一人チューバを吹く青年だ。カッコいい。トランペットでは絵になり過ぎるし、ホルンやトロンボーンではちと違う。チューバの優しい低音が、川のせせらぎに自然と溶け込んでいた。これもコロナの影響による三密を避けた練習なのかもしれない。声を掛けたかったが、そっとしておこうと思い、静かに耳を傾けた。
偶然にも遭遇した、つかの間の野外のミニコンサートだった。さてと腰をあげると、小鳥がアンコールを要求していた。川のある町はいいいものだ。
(あかんちょう)
2020.11.11
あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑱
ストリートピアノという自由
世界の空港・駅・街角などに置かれた“誰でも自由に弾けるピアノ”のことをストリートピアノという。いわゆる、公共のピアノである。世界で最初に設置されたのは、2008年に英国のバーミンガム市で、市内に15台のピアノが設置されたのが始まりだとか。日本では、鹿児島市の一番街商店街に置かれたのが第1号。皆それぞれ物語があるようだ。
そして、このたび豊田市コンサートホールの入っている豊田参合館ビルの1階ロビーに、「参合館みんなのピアノ」としてストリートピアノを設置した。きっかけは、地元の高校生の提案だ。
オープン初日は、弾く人がいるのか心配で演奏者のサクラを用意していたのだが、余計な心配だったようで、様々な年代の男性が次々にやってきて華麗に演奏した。これがまた実にカッコよく、いきなりメンズデーとなった。
2日目は、朝から子どもたちが来て、ピアノ発表会の度胸試しに一生懸命だ。その後は、学生さんやお母さんたち、ユーチューバーの男性、優しいタッチのおじいさんなど次から次へと途切れることがない。映像を撮ったり、インスタ映えを狙った人たちもいる。演奏曲もクラシックからポップス、童謡に民謡、ピアノ練習曲まで様々で聴いていても実に楽しい。他人同士でもお互いに拍手をしたり、その場で自然に会話が始まるなど音楽の輪がどんどん広がっていく。皆一様に幸せそうな表情だ。
自由に弾けるストリートピアノは、音楽を通じて人と人とをつなぐ素敵なアイテムになった。私も含め、ピアノを弾かないギャラリーのほとんどは、たぶん「私もピアノを習っておけばよかったなあ」である。
(あかんちょう)
2020.10.24
あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑰
カスタネットの女王
50数年前、保育園のお遊戯会で器楽合奏をしたことを覚えている。カスタネット、タンバリン、トライアングルに大太鼓。その他大勢に押しやられる楽器は、決まって一番単純なカスタネットだ。園児の手のひらサイズ、赤と青のシンプルな楽器をリズムに合わせて叩くだけ。
だが、どんな世界にも超一流を極めた人はいる。昨年、豊田市コンサートホールでは、世界一単純な楽器を世界一華のある楽器にしたスペインが誇るカスタネットの女王、ルセロ・テナさんが初来日コンサートを行った。マドリードで彼女が出演するコンサートには、必ずといっていいほどスペイン王妃が聴きに来ると言われるほどの存在だ。共演のお相手は、ハープ界の貴公子グザヴィエ・ドゥ・メストレだが、カスタネットの女王を共演者に選んだセンスと目の付け所も素晴らしい。
曲目は、アルベニスやグラナドス、タレガ、ファリャなどオール・スペイン作曲家によるもので、ピアノ曲・ギター曲、民謡・舞曲などの原曲をアレンジした作品群が一段と魅力を放つ。完全に虜にされてしまうハープの超絶技巧に、神業の如くカスタネットが絡み合い、まるで2人で歌っているようだった。圧巻の演奏に客席はスタンディング状態となり、終演後も長い余韻が続いた。
日の目を見ない楽器がキラキラの輝きに満ちた瞬間。それは楽器に限らず、どんな世界にも必ずあることだと思う。心が温かくなる瞬間だ。
(あかんちょう)
2020.10.13
あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑯
うまい・へた
落語の大名人、五代目・古今亭志ん生が次のような言葉を残している。
「人の噺を聞いて、自分より下手だと思ったら、自分と同じくらいのレベル。自分と同じくらいだと思ったら、自分より上手い。自分より上手いと思ったら、自分よりその人の方がはるかに上手い。」名言である。人間というものがいかに自分を過大評価するかということを戒めている。
晩年の志ん生は、酔っぱらって高座に上がり、話しながら眠ってしまったという逸話もあり、天性の自由奔放な話芸の持ち主のように思えるが、実は自分の芸に対してこのように厳しい見方をしていたということに驚いた。
その志ん生の次男である古今亭志ん朝に、一度だけ豊田市能楽堂で落語を演じてもらったことがある。ネタは「試し酒」で、酒に一家言ある主人と客が、大酒飲みの男を連れてきて五升の酒が飲めるかどうか賭けをする噺だ。酒飲み男が「少し外で考えさせてくれ」と言って出て行き、しばらくして戻ると一升入りの盃で五升の酒を飲み干してみせたので、賭けに負けた主人が「外に行って、何か特別な薬か、おまじないでもしてきたのか?」と尋ねると、「今まで五升なんて酒を飲んだことがないから、試しに酒屋で五升飲んできた」というオチである。
いかにも江戸っ子らしく、明るくきれいにテンポよく、そして粋で、もう絶品といえる見事な一番だった。上演中は立て板に水のごとき志ん朝の噺に引き込まれ、自分も一緒に酒を飲んでいるような気分になる。終わってから、上手かったなあとしみじみ感じ入ったものだが、あらためて考えてみると、本当に上手いという時は、聴いている間は「うまい」とか「へた」とかいうことを意識せず、そういう概念すらも忘れてしまうのではないか。無理なく自然に芸の中に同居して時を忘れ、気がついたら、ああ実は上手かったんだなあとなる。もっとも、その域に達するのは、並大抵のことではないだろうが。
(あかんちょう)